今のこの瞬間に感謝できるのは自分を大事にできている証拠
あちゃです。
限りある時間のなかで少しでも幸せだなと思えることを感じていられることがありがたいと思っています。
雨風をしのげる家があること。
その家を買い、今日まで私がなに不自由なく生きていられることを可能にしてくれている両親がいること。
朝、ベランダにでて富士山が綺麗に見えること。
美味しいコーヒーを淹れて家族と談笑を楽しむこと。
などなど、あげていけばキリがないほど、幸せが沢山あることに気づけていることがまた幸せであり、ありがたいです。
上記に挙げていたことは正直、普通というか、今のいままで当たり前ぐらいにしか感じていなかったですし、恥ずかしながらありがたいとも思っていなかったです。
その理由として自分で自分を不幸にする生き方だったりとか、ありがたみを忘れるような悪習慣を繰り返していたからだと感じています。
努力すれば、いつか必ず報われるし、見てくれている人は必ずいると響きのいい言葉だけを並べて、自分の気持ちに嘘をつき、やりたくないことばかりやってきました。
友だちや仲間という仮面をかぶったフレネミーと呼ばれる人たちに利用され続け、彼らの意見ばかりを尊重し、自分のことを二の次にすることが美徳だと思い込んでいた時期がありました。
正確にいうと、その時期はフレネミーという言葉も知りませんでした。
そういう人たちの言動は私のそれより遥かに正しいと信じ込んでいましたし、その人たちが敷いたレールをただただ外れないように上手に走って、嫌われないようにとにかく我慢することに努めていただけでした。
その時の生活はというと、1人暮らしをしていたので、部屋は散らかりっぱなしで思考停止状態でスマホをいじって眠くなるまで時間を潰す毎日。
ストレス太りをしたくないので、夜中、お腹を鳴らしたままベッドでひたすら寝転がり、ワケもなく常に憂鬱な明日が来ることに怯えてろくに眠れない日々を過ごすのがほとんどでした。
不幸中の幸いといえば、自分自身が浪費家ではなかったゆえに安月給でも貯金だけは毎月欠かさずにできたこと。
でもその幸いは月にたった1度の給料日にしか感じられなかったのです。
仕事(やりたくないことばかりの職種だったけど)があるだけ、群れることができる友人?たちがいるだけ幸せなほうじゃないかと、幸せじゃないのに無理やり言い聞かせていたおかげで当然何ひとつとして心が満たされることはありませんでした。
今思えばその苦しくて辛い毎日を過ごすことで、雨風しのげていた家があることも、晴れた日が気持ちがいいということも、コーヒーが美味しいということも、何より高齢者のカテゴリーに入ってしまった両親がまだまだスーパー元気だということも忘れてしまっていました。
正直、どうでもいいし、そんなことは当たり前なんだと基本的な「ありがとう。」という言葉も言えず、誰かに八つ当たりしていつも不機嫌な性格の悪い人間になっていました。
いつもその繰り返し。
環境を変えてもいつもと同じように立ち回っていたから新たなフレネミーに目をつけられ、悪しき心に自分で勝手に染まり、幸せやありがたみが見えなくなってしまうのがどんだけ愚かなことだったのかと痛感する日々を過ごしています。
そしてそれに気づけて本当に良かったと同時に思っています。
最近はじめたアルバイト(今のところイヤじゃない仕事内容。)は当時の安月給の半分に近いぐらいの収入しか見込まれないけれど、やりたくないことで自分の貴重な時間を切り売りすることが半減できていることに幸せを感じています。
その増えた時間でコーヒーの美味しさ、快適な家で家族と過ごせる時間、自然の美しさに対するありがたみが感じられる日がやってきました。
間違いだらけで失敗ばかりの人生を歩んでばかりの私だけれども、ちょっぴり成長したんじゃないのかなと今日は自己肯定感に浸りつつ、過ごしていこうと思います。
自分を大切にして有意義な時間を沢山過ごすことで幸せを感じて生きていきたいです。
ありがとうございました。